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旧ユーゴスラビアを旅して

  筆者が、旧ユーゴスラビア諸国を訪問したのは1998年8月。この文章は、このときの訪問について講演を1999年11月におこない、その講演内容を2000年12月にまとめて活字化されたものとほぼ同じです。ただ、2003年5月にWEB化するにあたって一部修正をおこないました。

  また、このページは、現在のところ、テキストのみで構成されています。できるだけ早く、写真を掲載し、見やすいページにしていきたいと考えています。また、私のサイトの他のページと比較して、かなり硬い内容になっていますので、そのつもりでお読みください。


1 はじめに

 東西冷戦が終わる一方で、世界の各地で民族紛争が多発しています。もとのユーゴスラビアの地域では、第二次世界大戦後のヨーロッパで、最大の犠牲者を出した紛争が発生し、今も一部で、不安定な状態が続いています。
1998年8月、この地域の状況を見てきましたので、報告します。

 はじめに、もとのユーゴスラビアの国々の概略について説明します。もとのユーゴスラビアは、セルビア、モンテネグロ、クロアチア、スロベニア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、マケドニアの6つの共和国からなる連邦国家でした。これが、1991年から92年にかけて、ユーゴスラビア、クロアチア、スロベニア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、マケドニアの5つの国に分離しました。92年以降のユーゴズラビアは、セルビアとモンテネグロからなる連邦国家でした。便宜上、もとのユーゴスラビアは「旧ユーゴ」、92年以降のユーゴスラビアは「新ユーゴ」と書くことにします。

 しかし、その「新ユーゴ」も今はありません。2003年2月、「セルビア・モンテネグロ」と改称したためです。92年に「新ユーゴ」ができた当時は、連邦国家といっても、圧倒的に強力なセルビアに小国モンテネグロが追随するといった感じだったんですが、97年ごろからは、モンテネグロが独自色を強めていき、一時は、両国が分離するのではないかと思われました。結局、アメリカ、EU諸国の意向もあって、モンテネグロの分離は実現しませんでしたが、現実には、弱い形の連邦になっていて、事実上、セルビアとモンテネグロは別の国のような状態のようです。

 
6つの共和国はあまりなじみがありませんが、クロアチアは、1998年のワールドカップ・フランス大会で活躍したことをよく覚えている人も多いと思います。


2 旧ユーゴスラビアの特異性

 冷戦期の旧ユーゴは、他の東ヨーロッパの諸国と同様、共産党(旧ユーゴの場合は「ユーゴスラビア共産主義者同盟」と称した)の一党独裁体制にありながら、もっとも市場経済的な手法を取り入れていたということと、外交面ではソ連とは一線を画して非同盟主義をとったことで有名でした(第一回非同盟諸国首脳会議は、旧ユーゴの首都ベオグラードで開かれました)。ソ連と一線を画せたのは、指導者であったティトーの力によるとことが大きいです。第二次大戦のとき、この地域もナチスドイツの占領下にあったのですが、パルチザン軍を率いてドイツからこの地域を解放したのがティトーでした。ほかの東ヨーロッパ諸国は、ソ連軍によってドイツ軍が駆逐されたのですが、そのために、戦後、ソ連の影響力が絶大なものになりました。これに対して、旧ユーゴは、ソ連の圧力をはねつけて、ソ連とは一線を画する路線をとったのでした。

 旧ユーゴを理解するうえでの有名なキーワードに「1,2,3,4,5,6」という数字がありました。これについてふれておきます。「1」というのは、党の数。一党独裁国家ですから、旧ユーゴには党が一つしかありませんでした(「1」を国の数とする説もあります)。

 「2」は文字の数。ラテン文字(私たちが普通に使うアルファベット)を使う人々とキリル文字(ロシア文字と同系統のアルファベット)を使う人々がいます。スロベニア、クロアチアではラテン文字、セルビア、モンテネグロ、マケドニアではキリル文字が使われます。ボスニア・ヘルツエゴビナでは、民族によって使用文字が違います。

 「3」は宗教の数。主な宗教として、カトリック、正教、イスラム教が信仰されています。スロベニア、クロアチアでは主にカトリック、セルビア、モンテネグロ、マケドニアでは主に正教が信仰されています。ボスニア・ヘルツェゴビナでは、イスラム教を信仰する人が多数派を占めていますが、クロアチア系の人々はカトリック、セルビア系の人々は正教を信仰しています。

 「4」は言語の数。スロベニア、クロアチア、セルビア、マケドニアはそれぞれ同名の言語が主に使用されています。モンテネグロは言語はセルビア語です。ボスニア・ヘルツェゴビナでは、セルビア語とクロアチア語が使われます。スロベニア、クロアチア語はラテン文字、セルビア、マケドニア語はキリル文字で表されます。これらのうち、クロアチア語とセルビア語はたいへんよく似ていて、日本の関西弁と関東弁くらいの違いでしかないそうです。でも、使用文字が違うので、私たちが見ると全然違う言葉としか思えません。


 「5」は民族の数。スロベニア、クロアチア、セルビア、モンテネグロ、マケドニアはそれぞれ同名の民族が、人口の大部分を占めています。ボスニア・ヘルツェゴビナでは、最も多いのはムスレム人(イスラム教徒ということで、宗教以外の面では区別が難しいです)ですが、クロアチア人、セルビア人もかなり多いです。このことが、ボスニア・ヘルツェゴビナの紛争を複雑なものにしました。

 「6」は共和国の数です。先に言った6つの共和国です。

 さて、こうした複雑な民族構成であった旧ユーゴが統一を保っていたのは、ティトーの力によります。彼は、民族主義的な動きをきびしく抑え込む一方、構成民族が対等の関係にたてるように尽力しました。彼は、クロアチア人ですが、大統領在職中には、クロアチア人の民族運動を抑えたりもしました。ところが、彼が死去すると、一挙に民族間の対立が表面化してきたのです。実は、セルビア人とクロアチア人の対立などは、ずっと昔からあったのですが、ティトーの影響力の前には、一見、なくなったかのように見えていただけのことだったのです。


 ティトーの死後、まず問題がおこったのは、セルビア共和国のコソボ自治州です。今も続いているコソボ問題の発生です。コソヴォ自治州は、セルビア共和国の一部であるわけですが、人口の9割をイスラム教徒であるアルバニア系の住民が占めています。ティトーのころには、自治州にかなり自治権が認めれていたのですが、ティトーの死後、自治権が大幅に制限されました。そのために、自治州のなかでは、反セルビアや自治権要求の運動が活発化し、セルビア警察はそれらを弾圧し、また、アルバニア系住民とセルビア系住民の間で血で血を洗う争いがくりひろげられたのです。


3 ユーゴ紛争の概要


 ユーゴ紛争とひとくちにいいますが、大きく分けて、4つの紛争にわけられます。スロベニア独立戦争、セルビア・クロアチア戦争、ボスニア・ヘルツェゴビナ内戦、コソボ問題です。これとは別に、紛争予防の目的でマケドニアにもPKOが展開されました。

 コソボ問題については、すでに触れましたので、それ以外の3つの紛争について簡単に説明しておきます。


 旧ユーゴを構成した6つの共和国には、かなりの経済格差があり、旧ユーゴは国内に南北問題をかかえていた国といえます。独立後の資料になりますが、一人あたりの国民所得を見ると、もっとも多いスロベニアともっとも少ないマケドニアのあいだでは9倍の格差があります(ボスニア・ヘルツェゴビナについては資料がありませんので、それ以外の4国の比較です)。

 ちなみに、スロベニアの一人あたり国民所得は、EU加盟国のなかでギリシアよりもやや多くなっています。それについでクロアチア、だいぶ離れて新ユーゴ(現在はセルビア・モンテネグロ)、さらに離れてマケドニアという状況です。旧ユーゴ時代には、国内の南北格差是正のために「北」でかせいだ資金が「南」に投入されていました。もちろん、こうしたことはほかの国でも行われていますし、日本でも行われていますが、旧ユーゴの場合は、かなり極端な経済格差があったために、このことをめぐる地域間の反目がかなり大きかったようです。ティトーの生存中は、こうした反目は表面化しませんでしたが、その死後、表面化したのです。

 そうした状況のなかで、コソボの自治権が制限されて、セルビアの力が増大していったのを見て、スロベニアやクロアチアでは、次はスロベニアやクロアチアに対してもセルビアの支配が及ぶのではないかという警戒感がただよいはじめました。

 こうした状況のなかで、スロベニアは独立の準備をすすめ、
1991年に旧ユーゴからの独立を宣言しました。これに対して、旧ユーゴは連邦軍を出動させて独立を阻止しようとしたため戦争がおこりました。これがスロベニア独立戦争です。このときは一週間ほどで停戦が実現し、スロベニアは独立します。旧ユーゴが簡単に独立を認めたのは、前述したとおり、スロベニアのほとんどの住民はスロベニア人で、クロアチアやボスニア・ヘルツェゴビナのように複雑な民族構成になっていなかったためです。

 続いて、クロアチアも旧ユーゴからの独立を宣言し、旧ユーゴはそれを阻止しようとしました。このときはスロベニアのように簡単には問題が解決されませんでした。クロアチア内には、セルビア人も多く居住していて、その割合はクロアチアの全人口の2割くらいになります。クロアチア内のセルビア人は、クロアチアの独立に反対し、クロアチアが独立するなら、自らにも民族自決権があると主張して、クロアチアからの「セルビア人共和国」の独立を宣言しました。こうして、クロアチア政府と「セルビア人共和国」の内戦、クロアチアと旧ユーゴの戦争がおこったのです。やがて、旧ユーゴはついに解体し、クロアチアの独立は実現しますが、セルビアを主体とする新ユーゴは引き続きクロアチア内のセルビア人を支援して戦争は続きました。

 さらに、ボスニア・ヘルツェゴビナでも紛争がおこりました。この共和国の場合は、有力民族として、ムスレム人(イスラム教徒のことであるが、旧ユーゴでは1970年代から独自の民族としての扱いをうけていました)、クロアチア人、セルビア人の3民族があり、これらが入り乱れての紛争が発生しました。最も人口構成比の大きい民族はムスレム人ですが、スロベニア、クロアチアに続いて、ムスレム人が多数を占める議会で独立を宣言しました。これに対して、セルビア人が独立に反対したのは、クロアチアの場合と同じです。こうして、ムスレム人とセルビア人の紛争になったのです。一方、クロアチア人は、当初はムスレム人と歩調をあわせていたのですが、やがて対立が生じ、3つどもえの紛争になっていきました。

 旧ユーゴの紛争で、最も深刻な被害が発生したのは、ボスニア・ヘルツェゴビナでの紛争でした。第二次世界大戦が終了してから、ユーロッパで最も多くの犠牲者が発生したのがボスニア・ヘルツェゴビナでの紛争でした。また、ここでの紛争では、民族浄化といわれた深刻な事態もおこりました。


4 旅のあらまし

 たどったコースを説明します。主な町だけ列挙します。オーストリアのウィーンから、まず、スロベニアの首都リュブリャーナ、ついで、クロアチアの首都ザグレブ、アドリア海岸の港町であるスプリット、ドブロブニク。そして、ボスニア・ヘルツェゴビナに入り、激戦があって今なお不安定なモスタル、首都サラエボ、その郊外にあってセルビア人勢力の町であるパレ。その次は、セルビアの首都ベオグラード、マケドニアの首都スコピエ、ギリシアにも近いオフリド、ビトラとまわりました。そしてベオグラードに戻り、ハンガリーのブダペストに抜けました。旧ユーゴ内の交通機関は主にバスを使いました。

 リュブリャーナは、訪問した旧ユーゴの都市の中では一番、西欧に似た雰囲気を感じさせられました。リュブリャーナで泊まって、有名な鍾乳洞とブレッド湖を見に行きましたが、西欧の観光地とほとんど同じような感じでした。

 リュブリャーナからザグレブはわずか3時間ほど、高速道路があってたいへん行き来が便利でした。ザグレブは、半日の滞在でしたが、新市街にある市場やそこからケーブルカーで丘を上ったところにある旧市街などを訪問しました。ザグレブからは夜行バスでスプリットに向かいました。スプリットはローマ時代の遺跡があるのですが、遺跡の建物の一部には人が住んでいたり、町を歩いていたら普通の建物と思っていたのが遺跡であったりして、遺跡が町にとけこんでいるようでした。バスの待合時間のわずかな時間でしたが、主なみどころは見ることができました。

 このあと、ドブロブニク、モスタル、サラエボ、パレを訪問しましたが、これらの都市は、各都市ごとに、詳しく書いていきます。

 パレからはベオグラードに向かい、すぐに夜行バスでスコピエに向かいました。早朝にスコピエに到着し、バスを乗り換えて、アルバニアとの国境に近いオフリドへ行きました。オフリドは、遺跡とオフリド湖の自然が調和している町で、のんびりできました。オフリドから日帰りで、ギリシアとの国境に近いビトラへいきました。ここには、アレキサンダー大王のころの遺跡があり訪問しました。旧ユーゴのなかでの経済格差は、事前に知っていたのと同じで、内戦の激しかったボスニア・ヘルツェゴビナを別格とすれば、スロベニア、クロアチア、セルビア、マケドニアの順に貧しくなっていくことが、見ていて明らかでした。マケドニアは、町の雰囲気なども、アジア的なものを感じます。もともと、文化が大きく異なる上に、経済格差が激しい諸地域を一つの国にしてやっていこうというのが元々困難であったのだと思います。

 その後、ベオグラードに戻り、市内を見て回りました。ベオグラードは、ウィーンやブダペストと同じでドナウ川が流れる町ですが、交通量が少ないためか、一番落ち着いている感じがします。ベオグラードでは戦争博物館にいったのですが、どう扱われているか興味のあったティトーの評価は、第二次世界大戦が終わってティトーの指導のもとで新しい国づくりが進められたという内容で締めくくられていて、結局よくわかりませんでした。あとで書きますが、ティトーの記念館と墓も訪問したのすが、どうも邪魔な存在のように考えられているのではないかと思いました。

 その夜、ベオグラード駅から夜行列車でブダペストに向かいました。旧ユーゴを構成していた5カ国に加えて、ウィーン、ブダペスト、プラハを訪問した旅でしたので、かなり忙しい旅ではあましたが、現代を生きているんだということを実感させられた旅でした。


5 ドブロブニク

 ドブロブニクは古くからの港湾都市で、一時期にはヴェネツィアと地中海貿易の覇権を競い合ったこともあり、栄華をきわめた旧市街のまわりを城壁がとりかこんでいます。世界文化遺産に指定されていて、たいへん美しい町です。旧市街にある港は、よくこんなに小さな港から世界各地へと出帆したものだと思えるくらいです。

 観光客の大半はピレ門という門から旧市街に入るわけですが、その門のところに、ドブロブニクが新ユーゴによって、どんなに攻撃を受けたかを示す地図が掲示してあります。爆弾の落とされた地点が細かく示されていて、相当な被害があったことがわかります。この門から旧市街の中に入ると、観光客であふれています。でも、一軒一軒の家をよく見ると、ところどころに屋根の壊れたままの家、窓ガラスの代わりに板がうちつけてある家などが残されたままになっています。城壁を一周したわけですが、海岸に近い部分では、城壁のすぐ内側の家が完全に壊れていて、そのままになっているようなところも多く残されていました。沖合の艦船からの艦砲射撃が相当激しかったことがわかります。


 旧市街のメインストリートを歩くと、そこが戦場であたっということを忘れさせるような賑わいがありました。観光客向けのブティックやカフェ、レストランなどが立ち並んでいます。メインストリートに直交している路地裏にも、観光客向けの店がかなりでていました。ですが、よく観察しながら歩くと、やはり戦争の傷跡がみられました。窓が板で覆われ、人が住んでいなさそうな家もところどころに建っていました。
 
 旧市街を見下ろすスルディ山という小さな山があるのですが、その山に登るケーブルカーは戦争中に運休し、訪問したときも止まったままでした。麓の駅にはケーブルカーの車体が放置されていました。頂上からの眺めは美しいということで歩いて登ることも少し考えたのですが、登山道から少し離れると、まだ地雷がたくさん埋められているということで、山登りはあきらめ、中腹の住宅街の一角にある見晴台から景色を楽しみました。この美しい南国の町で戦争がつい数年前に繰り広げられたとはにわかには信じられません。


 ドブロブニクでは、沿岸をモンテネグロとの国境近くまで行く遊覧船に乗りました。その船からの、窓という窓のガラスが全部なくなっているホテルらしき建物が見えました。旧ユーゴ軍の艦砲射撃で破壊されたのでしょう。そのホテルのそばで、今はたくさんの人たちが海水浴をしていました。

 また、ドブロブニクの沖合いにあるロクルム島にもいってきました。島全体が海水浴とキャンプのためにあるような島でたくさんの人でにぎわっていました。一部の海水浴場はヌーディストビーチになっていました。そこでは服を着ている人はだれもいませんから、自分がとても目立ってしまいました。変な日本人が見に来たと思われたら困るので、自分も服を脱いで、海に入ったり、日光浴したりしました。


6 モスタル

 ドブロブニクからバスでモスタルに向かいました。クロアチアからボスニア・ヘルツェゴビナに入るのですが、訪問した当時は、国境を越えてもクロアチアの延長のような感じでした。というのは、国境での検問は形式的なもので、しかもクロアチア側はもちろん、ボスニア側にもクロアチア国旗がたっているのです。ボスニア側には、ボスニア・ヘルツェゴビナ国旗、ボスニア連邦旗(ボスニア・ヘルツェゴビナのうちで、ムスレム人、クロアチア人の支配区域がボスニア連邦)、クロアチア国旗がたっていたのです。さらに、モスタルで経験したのですが、クロアチア人の支配地区では、ボスニア・ヘルツェゴビナの正規の通貨であるマルカではなく、クロアチアの通貨であるクーナが流通していたのでした。また、モスタルのホテルでわかったのですが、モスタルのクロアチア人地区にあったそのホテルからは、同じモスタルの中の川向いのムスレム人地区へは国際電話になるのに、遠く離れたクロアチアのザグレブへは国内電話だったんです。(1998年当時の状況です。現在は大きく変わっていると思います。)

 一連のユーゴ紛争で、もっとも激しい市街戦が繰り広げられた町がモスタルです。この町は、ボスニア・ヘルツェゴビナのうち、南部のヘルツェゴビナの中心都市です
ボスニア内戦の始まったころは、セルビア人勢力に対して、ムスレム人勢力とクロアチア人勢力が連合して対抗していたのですが、やがてムスレム人勢力とクロアチア人勢力も戦闘をはじめ、三つどもえの戦闘になりました。この町の真中には、ネレトバ川が流れているのですが、この川の東側がムスレム人地区、西側がクロアチア人地区になっています。ただし、町の中心部の一部では、西側にムスレム人地区が張り出していて、そこでは幅十メートルくらいの幹線道路が境界になっています。

 かつては、一応、両者の居住区域は分かれていたものの、両区域の往来もかなりあったのですが、現在では、あまりありません。幹線道路が境界になっている地域は、紛争前は町の中心だったのですが、現在はゴーストタウンになっています。その境界になっている道路を歩いてみたのですが、ほかに歩いている人がほとんどなく、気味悪くなってきて足早にその地域から去りました。(歩いている人がないのは危険だからではなく、住んでいる人がいないからです。ですから、自動車はたくさん通ります。また、国連の車も頻繁に通って警戒しています。)

 紛争が停戦してから3年(1998年の訪問時点で)がたちますが、復興は遅れています。道路をはさんで、廃墟が向かい合っています。宿泊したホテルは、この地区から数百メートル離れているのですが、遺跡の中に新しい建物が建っているというような感じでした。また、このホテルは国連関係者が常宿にしていて、玄関には装甲車が止まり、兵士が警戒にあたっていました。ムスレム人地区、クロアチア人地区の双方の市街地も見て回りましたが、どちらも復興はあまりすすんでいませんでした。とくに、ムスレム人地区の家々は、ほとんどがどこかが壊れたままになっていました。



7 サラエボ

 モスタルの新しいバスターミナルはムスレム人地区にあり、傷跡の目立つムスレム人地区にあっては、とても新しく立派な建物でした。でも、そこを発着するバスの中にはとても古そうな車もたくさんありました。サラエボ行きのバスも古い車であいた。なんと、出発後30分ほどしてから、故障で先に進めなくなってしまいました。結局、一時間後にやってきた別のバスに乗りました。別のバス会社だったんで、新たに料金を払いなおさなければなりませんでした。

 やがて、橋げたの中央部分が破壊されたために、鉄骨で補強してある橋にさしかかりました。壊れた橋を全部架け替えることができないので、応急処置をとっているのでした。でも、たくさんの車が通ると危ないためでしょうか。その橋の部分だけは一方通行になっていました。

  サラエボは盆地の町で、まわりを山々に囲まれています。ムスリム人勢力の拠点であったサラエボは、まわりの山々に陣取るセルビア人勢力に取り囲まれ、水や食料の補給をたちきられ、まわりの高所から市街地に対して砲撃の雨があびせられました。坂道を歩いて上り、市街地を見通せる場所まで行ったのですが、たくさんの人々が撃たれてなくなった大通りがよく見えました。この大通りは、一時期スナイパー通りとも呼ばれました。

 この町も、たいへんな被害を受けたのですが、モスタルに比べると復興がすすんでいるようには見えました。でも、一軒一軒の建物を見ると、どこかしらに戦争の痕跡が残っているものが多く、なかには、蜂の巣のように壁に銃弾の穴があいているような建物もありました。それでも、町の中心部には、市民や観光客がたくさん繰りだしている繁華街もあって、活気が感じられました。観光客の多いトルコ人街で買ったみやげ物の置物は、戦争で使われた弾丸を再利用したものでした。

 バスターミナルの近くは、サラエボの政治的な中心地といってよい場所で、ボスニア・ヘルツエゴビナの国会議事堂や、国連機関などが入居しているツインタワーなどがあります。ツインタワーは、戦争前にはサラエボの発展を象徴するかのような建物だったのかもしれませんが、訪問時には惨めな姿になっていました。半分以上の窓には窓ガラスがなく、火災で焼けただれたままでした。それでも、下の方の階にはオフィスが入居していました。

 この町では、
1984年に冬季オリンピックが開催されました。その際に、競技や式典が行なわれた施設も残っているのですが、どれも戦火にさらされて、かろうじて残っているといった感じでした。注意して歩くと、冬季オリンピックの当時の案内看板がまだ残っているところがあり、スケートやスキー、アイスホッケーなどの会場がピクトグラムが示されていました。サラエボオリンピックは、TVで見た覚えがかすかにのこっています。開会式がおこなわれたスタジアムは、荒れ放題でしたが、訪問した翌年、新しく建設しなおすとのニュースが現地から伝えられていました。今は新しいスタジアムになっていることでしょう。また、このスタジアムの近くにあるサッカー場は墓地になっていました。

 サラエボの名は、第一次世界大戦の直接のきっかけとなったサラエボ事件でも知られています。この事件の際に、オーストリア皇太子が撃たれたところにも行ってきました。このそばに橋があって、現在はラテン橋と呼ばれているのですが、かつては撃った人物の名をとってプリンチベ橋といました。
1994年に改称されたということが橋のたもとに表示されていました。プリンチベはセルビア系の青年であったので、ボスニア・ヘルツェゴビナの独立、内戦を通じて評価が下がり、橋の名も改名されたものと思われます。また、橋のたもとに青年ボスニア博物館というのがあったのですが、閉鎖され別の目的に使用されているようでした。

 サラエボでは、UNHCR(国連難民高等弁務官事務所)の日本人職員Mさんとお話しする機会がありました。Mさんは、難民となって他地域へ移動した人たちが元のところに戻るのを援助する仕事をなさってました。私はホテルに泊まっていたので気づきませんでしたが、まだ給水制限がおこなわれていて、昼間の水の出る時間に水をためておかないと、夜遅くなると水が利用できないとのことでした。戦争の傷跡はしだいにいえてはきているももの、戦争前のように、民族の垣根なく行き来がおこなわれるようになるのは相当難しいのではないか、行き来は可能にはなったが、事実上3つにわかれているこの国で、異なる民族の支配地域をまたがって動く人は少ない、といったことも聞きました。


8 パレ

 サラエボ郊外の小さな町です。この町はセルビア人勢力支配地域にあります。サラエボからベオグラードへ直通するバスはありません。いったん、ベオグラード行きのバスが出ているセルビア人勢力支配地域の町へ出なければなりません。パレはベオグラード行きのバスに乗るために行ったのです。

 さて、サラエボからパレに行くためには、公共交通機関がないので、タクシーを利用しなければなりませんでしたが、タクシーは二台を乗り継がねばなりませんでした。つまり、支配地域の境界(正確にいうと境界から1キロほどセルビア人勢力支配地域に入ったところ)でタクシーを乗り換えねばならないのです。ムスレム人支配地域のサラエボのタクシーは境界までしかいってくれません。境界からは、セルビア人勢力支配地域のタクシーに乗ってパレに向かいます。二台のタクシーの乗り継ぎはきわめてスムーズで、サラエボからのタクシーを降りると、そこには別のタクシーが待ち構えていました。現在では、両方のタクシーが相互乗り入れしているらしいです。


 支配地域の境界をこえると、同じ国の中で移動しただけというのに、別の国へいったかのようです。それは、使用される文字が変わるからです。ムスレム人、クロアチア人の支配地域であるボスニア連邦では、ラテン文字が使われているのですが、セルビア人の支配地域であるスルプスカ共和国では、キリル文字が使われているのです。看板の文字が変わり、別国のようです。でも、文字は違っても、クロアチア語とセルビア語はほとんど同一の言語といってもよいくらいの違いしかないらしいです。さらに、パレでベオグラードまでのバスの切符を買ってわかったのですが、セルビア人地区では、新ユーゴの通貨であるユーゴスラビア・ディナールが使われているのでした。ディナールは持っていなかったので、ドイツ・マルクを使ったら、お釣りはディナールで返されました。3つの民族の支配地域ごとに、流通する通貨が違い、どの地域でも共通に流通するのはドイツ・マルクというのが実態でした。

 パレは、セルビア人地区の拠点のひとつだったんですが、NATO軍の攻撃もこの町に対してかなりおこなわれたようです。でも、その痕跡は町を歩いただけではわかりませんでした。単なる田舎町という感じでした。パレからは、ベオグラードへバスで向かいました。


9 最後に

 ベオグラードでは、ティトー元大統領の記念館と墓のあるところを訪問しました。かつてはバスで訪問する人が多かったのでしょう。広い駐車場がありました。でも、雑草が生い茂り、今はここが開館していないことを示唆していました。実際に、記念館は閉鎖されていて、入るとすぐに追い出されてしましました。墓はトタン板で覆われ、内部が見えないようになっていました。ティトーはクロアチア人だったんで、かつての英雄も、訪問当時のセルビアにとっては、微妙な立場だったんでしょう。来てはいけないところに来てしまったかのようで、逃げるようにその場を立ち去りました。以前の旧ユーゴを知る人にとって、こんなことになるということは予想できなかったと思います。歴史というものは刻一刻とかわっていくものだということを実感させられました。

 ベオグラードを訪問してから一ヶ月ばかりした1998年秋、コソボ問題が深刻化してきました。旧ユーゴはコソボ自治州でのアルバニア系住民の迫害をすすめ、NATOは旧ユーゴに対して制裁を強化しました。一時的に危機はさったのですが、やがて問題が再燃し、訪問から半年後の1999年春、NATOは旧ユーゴに対する武力制裁に乗り出しました。ベオグラードは空爆をうけ、私の歩いた繁華街でも被害があったことが報じられました。また、ベオグラードからブダペストまで利用した鉄道は、ドナウ川に架かる橋が破壊されたために不通になりました。私が訪問した場所で、世界的な重大事件がおこったのはほとんど例がないので、このできごとは、どこでも重大事件がおこる可能性があるんだという思いを強くしました。

 旧ユーゴでは、その後、内戦期を通じて権力者であったミロシェビッチ元大統領が選挙の敗北で地位を失い、その後の政権の手により、欧米諸国の要求にもとづいて逮捕され、今は戦争指導者として裁かれています。一方、とってかわった政権は、ミロシェビッチのような強引さはないかわり、国を安定させる力には欠けるようであり、その後も旧ユーゴの不安定な状況は続いています。

 すでに、コソボ問題が激化していたころから、新ユーゴのなかでもモンテネグロ共和国はセルビア共和国と距離をおきはじめていましたが、ミロシェビッチが退陣した後は、両国は連邦を解消しても不思議じゃない状況にまでなりました。セルビアは、モンテネグロが分離すれば、海のない国になってしまうので、ミロシェビッチ派も反対派もこぞって分離に反対しました。そのうえ、欧米諸国は、これ以上旧ユーゴ地域が不安定になることを恐れ、モンテネグロの分離には反対しました。そのため、新ユーゴはなんとか解体されなかったんですが、分離を望むモンテネグロ側は、どんどん中央政府との距離をおき、事実上は、セルビアとモンテネグロという別個の国が外交上は新ユーゴという一国に扱われるような状態にまでなりました。そうした状況をふまえて、2003年2月、ユーゴスラビア連邦という国名は、セルビア・モンテネグロという国名に変更されました。

 ユーゴスラビアという国名が登場したのは第一次世界大戦のあとです。セルビアを中心して、南スラブの諸民族を含む国家として歴史上に出現しました。同時に、セルビア、モンテネグロなどの国名が姿を消しました。ユーゴスラビアとは、南スラブという意味です。ポーランドやチェコなどは北スラブでそれに対する語です。ユーゴスラビアが誕生したときは、王国でしたが、第二次世界大戦のあと、社会主義のもとでの連邦共和国になりました。しかし、内戦のために、4つの国は分離し、かろうじて残った新ユーゴも、ついにその名を消したわけです。そして、かつて存在したセルビアとモンテネグロの名が約80年ぶりに復活しました。

 この地域は、世界の火薬庫と呼ばれてきましたが、今後はそのような呼ばれ方が過去のものになるように、この地域が安定することを望みます。いづれ、この地域を再訪し、変化を感じとりたいと思っています。

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